【連載】学校の「あたりまえ」を考え直す 3 学校の全体主義くっきりと

明治大学准教授 内藤 朝雄

 

「学校らしい」学校のコスモロジー(小さな社会を、外部がない包み込む宇宙のようにしたてあげる、感情とストーリーと実践の体系)について、より詳しく見ていこう。

多くの人々は人生初期から学校を「あたりまえ」と感じるよう変えられているので、そこに独自のコスモロジーが存在していること自体が分かりにくい。発見するコツは、学校を外の社会と比較し、くっきり異なる断層に着目することである。

例えば市民の社会では自由なことが、学校では許されない場合が多い。前回、前々回述べたように、どんな服を着るかの自由がない。靴下や下着やアクセサリー、鞄、スカートの長さや髪のかたちまで、細かく強制される。菓子、飲料、漫画、玩具などを持っていれば強奪される。どこで誰と何を、どのようなしぐさで食べるかということも、細かく強制される。社会であたりまえに許されることが、学校ではあたりまえに許されない。

逆に市民社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、強制労働、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。教員や学校組織が行う場合、それらは教育である、指導であるとして正当化される。正当化するのがちょっと苦しい場合は、「教育熱心」のあまりの「いきすぎた指導」として責任から逃れることができる。生徒が加害者の場合、犯罪であっても「いじめ」という名前をつけて教育の問題にする。

さて、学校はことほどさように全体主義的であるといっても、日本の企業などを見てみると、外の社会も十分全体主義的ではないかという疑念がわくかもしれない。

市民状態と全体主義状態は、どんな社会にも多かれ少なかれ混在している。現実は、市民状態100パーセントのまっ白から、全体主義100パーセントのまっ黒まで、水にインクを落としたようにつらなっている。その中で、構造的にかなりまっ黒に近い状態になりやすいのが日本の学校であり、学校を取り巻く外の社会(日本の市民社会)は、それに比べると白よりの灰色に位置する(白く見える)。この灰色も、人権優等生であるオランダやデンマークの市民社会と比べると黒く見える。ここで、学校のひどい黒(全体主義状態)をくっきり認識するために、それよりはましな灰色(出来の悪い日本の市民社会)と比較し、その落差発見の手がかり(マーカー)として用いるのである。